
篠原楓
古邸で休養する文化財修復師。紙をいたわるように、自分の限界も大切にしようとしている。
雨宿の古邸 · 日本・京都洛北・雨宿古宅
京都郊外の雨宿は、久我家の古い屋敷だ。今は、疲れた創作者や夜勤の働き手、研究者も暮らしている。管理人の久我涼は画材を蔵にしまい、修復師の篠原楓は工具箱を携えて休養に来た。雨漏りをしのぎ、本を直し、古い家族宛ての手紙を探す日々に、二人は近づいていく。東の棟の琴の音も、台所に現れる少年の影も、ただ怖いだけの噂ではなくなった。夏の終わり、住み続ける人、再び筆を執る人、撮る前に話を聞こうとする人がいる。扉の向こうの過去を誰もすべては知らない。それでも、ここにいる人々は、もう単なる通りすがりではなかった。
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古邸で休養する文化財修復師。紙をいたわるように、自分の限界も大切にしようとしている。

雨を描きたかった古邸の管理人。屋敷を引き受け、まず人の部屋に雨を入れない仕事を覚えた。
京都北区、鷹峯の山麓に佇む「雨宿」は、杉木立と降り止まぬ梅雨に百年の時を浸された数寄屋造りの古邸である。
邸宅は母屋、西離れの客室、そして低く薄暗い折れ曲がり回廊の先に連なる東離れによって構成されている。東離れの突き当たりには一年を通じて閉ざされた重厚な檜格子戸が佇み、その小壁には色褪せた旧札が掲げられ、枠の中央は黒漆と斑な緑青に覆われた鍛鉄の横閂によって固く閉ざされていた。久我家が対外的に掲げる宿泊名簿において、その区画は「機織り場および旧資材庫」と素っ気なく記され、昭和三十年代末の不可解な火災以来、いかなる投宿者や見習いにも決して開かれることはなかった。
されど、家には記憶が宿る。梅雨の季節を迎えるたび、山嵐が飽和した重い湿気を尾根から運び落とし、古びた軒瓦の端から雨水が一筋の細流となって苔むす飛び石に虚ろな響きを打ち鳴らす。昼夜を問わず湿気を吸い吐きする木材は軋む関節のような微かな呻きを上げ、暗闇の深奥に封じられた往事の記憶は、障子や壁紙の継ぎ目から滲み出る染みのように、ここに身を寄せるすべての者の日常を音もなく侵食していった。
七十歳になる当主の久我志乃は、常に中庭に面した茶室に座していた。膝には厚手のウール毛布を掛け、その指先は艶を帯びるほど磨かれた菩提樹の数珠をつまんでいる。その孫であり二十六歳の久我涼は、修繕計画と光熱費の領収書が油性ペンで几帳面に記されたバインダーを抱え、軋む欅の床を踏みしめて廊下を渡る。二つの世代の間には半世紀の沈黙と、互いに触れることのできぬ宿命の結び目が横たわっていた。
東離れの閂の冷たい鉄の下には、相容れぬ二つの声が埋もれていた。迫り来る炎の中、幼い身を扉に押し当てて「決して開けてはならない、危ない」と叫び続けた少女と、息詰まる濃煙の中で狂ったように格子を掻きむしり「助けてくれ、門を開けてくれ」と泣き叫んだ少年。五月二十七日の嵐の夜、互いに譲らぬ二つの執念は、電光が夜空を引き裂く豪雨の中で古邸の皮膚を根底から裂き開くこととなる。
五月二日の早朝、晩春から初夏へと移ろう折、大気に満ちる鬱屈した重みは早くも臨界点へと迫っていた。
五月二日の早朝、涼はいつものように玄関脇の杉材キーボックスの前に立ち、月に一度の棚卸しを行っていた。白い札の貼られた木製フックには真鍮の鍵が整然と並び、「母屋一号」から「西離れ六号」まで続いている。しかし、指先が右下隅の空きフックを滑った瞬間、彼の心臓は唐突に跳ねた。三段目五番目のフックが空になっており、脇には鉛筆でかすれた「東一号」の文字が残されているものの、鍵そのものは忽然と姿を消していた。
涼は眉をひそめ、点検バインダーを手にして志乃の居間へと足を踏み入れた。老女は仏壇に摘みたての樒の葉を供えており、香炉からはほのかに苦い薬草の匂いを帯びた白い煙が一筋立ち上っていた。
「祖母さん、東離れの倉庫の親鍵はどこにありますか。台帳には先月玄叔父さんが修繕した時の記録があるのに、今日は空っぽでした」
志乃は振り返りもせず、黒漆の角盆に供物杯を静かに置いた。その声には何の動揺もない。「あの部屋にはもともと鍵など要りません。あそこの閂は外から落としてあるし、中にあるのは先代が残した古い家具ばかりで、改めるほどのものはないのです。涼、お前は西離れの店子たちの家賃だけを気にかけていなさい。余計な気を起こすものではありません」
「ですが管理規約には、消防点検に備えてすべての出入口に二重の予備鍵を備え置くことと定められています……」
「規約は人が書いたものですが、この家の掟は久我の血が定めたものです」志乃は向き直り、枯れ井戸のように昏い眼差しを向けた。「帳面を閉じなさい」
涼は老女のやつれながらも異常な決意をたたえた顔を見つめ、喉を動かしたが、それ以上は問わなかった。だが帳面を閉じることはせず、「東一号」の文字の下に一本の鮮やかな赤線を引いた。
五月三日、雨は気象予報よりも三日早く降り始めた。大工の真壁玄は、木屑と乾いた桐油に汚れた灰藍色の作業着をまとい、アルミの脚立を踏んで東離れ北側の差し掛け軒へと登った。唇に三本の真鍮平頭釘をくわえ、胼胝だらけの無骨な掌で、激しく炭化し灰白色のカビに覆われた垂木を撫でた。
「涼、水平器を上げてくれ」玄は下に向かって声をかけた。
梯子の下から涼が見上げた。「玄叔父さん、どうですか」
玄は口の釘を掌に吐き出し、垂木と漆喰壁の接合部を親指で強く押し込んだ。黒褐色の腐朽した木屑が粉末となってパラパラと零れ落ちる。「思ったより酷いな。谷樋の鉛板が三十年前に裂けて、昔アスファルトで誤魔化したきりだ。雨水がこの隠れ目地を伝って東離れの内壁へ丸ごと染み込んでいる。半月も持たずに奥の通し柱の根元が腐り果てるぞ」
「すぐに瓦を剥がして全面的な大改修をすべきですか」涼の声には事務的な緊張が滲んでいた。
玄は梯子から降り、手の埃を払いながら、鉄の閂で頑丈に閉ざされた檜戸を複雑な眼差しで見つめた。「俺だって剥がしたいさ。だがお前の婆さんがわざわざ杖をついて作業場まで来て、直していいのは外軒先だけで中の瓦は一枚たりともめくるなと釘を刺しに来た。涼、木は嘘をつかねえ。水がどれだけ深く入ったかで、中の腐れがどれほど広がっているかが分かる。このまま隠し通す気なら、この家はいずれ自重で潰れるぞ」
玄はその言葉を廊下の向かいに住む店子たちには漏らさなかったが、その夜、自らの修繕日誌に一行の文を書き残した。『東離れ通し柱の含水率三十五パーセント超過、構造強度はすでに極限状態にある』
五月四日、町の大林寺の資料庫には樟脳と防虫紙の古びた匂いが漂っていた。京都大学文学部で地方文書の整理を手がける小暮真紀は、白手袋をはめ、『鷹峯山久我一門過去帳』を慎重にめくっていた。窓外の細雨が摺りガラスを叩き、薄暗い部屋の空気を濡らしている。
真紀の指先が、昭和三十四年の頁でぴたりと止まった。和綴じの麻糸は喉元の部分で鋭利な刃物によって断ち切られた痕跡があり、七頁目と八頁目が綺麗に引きちぎられ、残された破片はとうに黄色く酸化していた。
「小暮さん、昭和中期の火災に伴う改名記録は見つかりましたか」カウンターの奥から寺の司書が声をかけた。
真紀はとっさに掌でその欠損部を覆い、平静を装って微笑んだ。「まだ探しているところです。この過去帳はお寺に預けられる前、久我家の手元で保管されていたのでしょうか」
「ええ、昭和四十年、志乃さんの父上が亡くなるまでは久我家にあり、その後まとめて大林寺へ寄託されたのです」
真紀は俯き、眼鏡の奥にその不揃いな破断面を映した。切り取られた二頁は、久我沙世が命を落とし、寄宿していた遠縁の少年である辻村冬真が失踪したその時期と寸分違わず重なっていた。彼女は写真を撮ることも寺に報告することもなく、鞄から半透明のトレーシングペーパーを取り出すと、鉛筆で破れ目の繊維パターンを極めて静かに擦り取った。歴史学において、欠落そのものが文字よりも雄弁な証言となることを、彼女は知っていた。
五月五日、午前二時四十五分。プログラマーの青山樹は疲労困憊の体を引きずり、雨宿の引き戸を開けた。長時間のディスプレイ注視で眼球は充血し、耳鳴りは止まぬ夏の蝉のように響いていた。薄暗い西離れの廊下を共用浴室に向かって歩いていたその時、粗い紙やすりを爪で擦るような微かな擦過音が、ノイズキャンセリングヘッドホンをすり抜けて耳に届いた。
樹は足を止め、ヘッドホンを外した。音は東離れの角から聞こえていた。
木格子の引き窓には厚手の生成り障子紙が貼られている。非常灯の昏い緑の光に照らし出され、小さくぼやけた黒い影が、障子の内側をゆっくりと横滑りしていた。猫などではない。その肩は異様に丸く持ち上がり、まるで背伸びをして窓の外を覗こうとする幼子のようだった。
樹の鼓動は激しく跳ね上がり、背筋に凍てつくような悪寒が走った。息を殺して二歩後ずさりし、背中が太い柱にぶつかった。
翌朝、樹は共同台所で牛乳を温めていた涼と顔を合わせた。「昨夜……東離れの中に誰かいましたか」樹はブラックコーヒーのマグカップを握り締め、指先を微かに震わせながら尋ねた。
涼のミルクパンを握る手がわずかに止まったが、すぐさま何事もなかったかのように平然と、冷ややかに返した。「見間違いですよ、青山さん。東離れには何十年も電気を通していませんし、窓の外には百日紅の古木があります。昨夜は風が強かったので、枝の影が障子に映るのはよくあることです。少し残業が過ぎるのでは」
樹は涼の濁りのない瞳を見据え、唇を真一文字に結んだ。口論はしなかったが、二階の自室に戻ると静かにノートパソコンを開き、持参していた業務用の高感度ステレオボイスレコーダーを音声感知録音に設定し、廊下の曲がり角の巾木の下、暗がりの中へと滑り込ませた。
五月六日、雨宿の縁側回廊に黒いカーボン三脚が据え付けられた。インディペンデントのドキュメンタリー監督である朝比奈柚月は、東京の番組プロデューサーとスマートフォンで通話していた。声を低く潜ませながらも、苛立ちは隠しようがなかった。
「……ネット配信が廃墟の怪談ばかり求めているのは知っています。でもこの企画はもともと『京都の伝統数寄屋造りにおける空間倫理と家族の継承』であって、心霊スポットの肝試しじゃないんです!」
電話の向こうから、プロデューサーの冷ややかでぞんざいな声が返ってきた。「柚月、小難しい芸術記録なんて再生数は取れないんだよ。スポンサーが求めているのはフックだ! 昭和に死人が出て半世紀も封鎖された東離れ、これ以上のサスペンスがあるか。来週までに東離れの中のインサートカット一枚すら撮れないなら、この企画は二班に回してバラエティ風に仕上げる。自腹で立て替えた取材費も一切精算しないからな」
柚月は奥歯を噛み締め、荒々しく通話を切った。ファインダーの向こうに佇む静まり返った閂の扉を見つめると、雨に濡れた檜の木目は息の詰まるような鉛色を帯びていた。手帳を開き、「建築構造撮影許諾」の欄の脇に、「緊急特例条項」という文字を殴り書きした。倫理の一線を踏み越えつつあることは自覚していたが、東京のアパートの郵便受けには銀行の督促状が溢れ返っていたのだ。
五月七日、文化財修復師の篠原楓は中庭の西側にある作業場に正座していた。極細のアナグマ毛の刷毛を手に、母屋から取り外された破風板の木彫を慎重にクリーニングしている。作業台の隅で携帯電話が震え、画面には奈良国立文化財研究所の人事課長の名が表示された。
「篠原さん、手首の神経炎の具合はどうだい。来月、平城宮跡から出土した漆器の減圧乾燥工程が前倒しで行われることになってね、評価委員会が君の早期復帰を望んでいるんだ」
楓は右手首に巻かれた肌色の伸縮包帯を見つめた。雨の日には今なお針で刺すような神経痛が疼くが、肉体の痛み以上に、雨宿という場所が放つ俗世から隔絶された静止した時間に魅せられていた。
「課長、休暇をあと三週間延長させてください。ここには幕末から昭和初期にかけての民間木造建築の標本があり、極めて学術的価値の高い状態で保存されています。現況実測図を完成させたいのです」
電話を切ると、楓は顔を上げ、雨煙に霞む向かいの東離れの瓦屋根を見つめた。研究所から復帰を急かされている事実は涼には伏せていた。涼は彼女を単なる療養中の物静かな店子として扱っていたが、彼女の鋭い職業的直感は告げていた。この古邸を蝕む「木材の変質」は、単なる雨漏りや白蟻の仕業などでは決してない、と。
季節が五月下旬へと進むにつれ、空気の湿気は紙の端が湿って波打つほどに濃密さを増していった。
五月八日、京都市立中央図書館地下二階のマイクロフィルム閲覧室。民俗学専攻の大学院生、西園明はリーダーのクランクを回していた。歯車に連動してフィルムリールが乾いた擦過音を立てる。青白いスクリーンには、『京都新聞』昭和三十四年七月度の縮刷版面が映し出されていた。
彼の視線は、第四面右下の目立たない三面記事に釘付けとなった。
「【北区鷹峯で民家火災】十一日午後十一時四十分頃、鷹峯町久我方住宅付属の納屋より出火、約四十平方メートルを全焼。家主久我氏の長女(九)が救助搬送の途上で窒息死。出火原因は蝋燭の転倒による綿屑への引火とみられる……」
明は眼鏡を押し上げ、ノートから別の書類の控えを抜き出した。志乃が大林寺に寄託した『久我家系譜』の複写であり、そこには明白にこう記されていた。『長女沙世、昭和三十四年七月十一日戌の刻(午後八時)、急性肺炎により自宅にて卒す』
新聞が報じる出火時刻は深夜十一時四十分、死因は煙による窒息。家系図が告げる時刻は午後八時、死因は急性肺炎。四時間近い時間の断絶と、真っ向から食い違う死因。これを単なる誤記で片付けることは不可能だった。明が複写ボタンを押すと、熱転写紙が特有の刺激臭を放ちながら排出された。その紙を大学へ持ち帰ることはせず、四つ折りに畳んでフィールドワーク用の防水ポーチの底深くに忍ばせた。
五月九日、母屋の回廊の突き当たりにある黒電話が不意にけたたましいベルを響かせた。志乃は静かに歩み寄り、重い受話器を耳に当てた。
受話器の向こうから、丹波訛りの強い、傲慢で年老いた男の声が響いた。久我本家の現当主であり、志乃の従兄にあたる男だった。
「志乃か。西離れを見ず知らずの余所者に貸し出しているそうだな。学者だの活動写真の撮影だの……何を考えている。東離れの件で、当時警察と寺を黙らせるために本家がどれほどの骨を折ったと思っているんだ。余所者にあの屋敷から見せてはならん腐れ木切れ一つでも掘り出されたら、久我の墓穴を掘り返すことになるぞ!」
志乃は受話器を握る指先が白くなるほど力を込めたが、その声は凍てついた土のように頑なだった。「この屋敷を切り盛りしているのは私です。固定資産税も毎年の修繕費も、本家からは一銭も頂いておりません。東離れの閂は三十年間一度も開けておりませんし、誰一人入れはしません」
「そうであってもらわねば困る。もし涼とかいう小倅が分を弁えずあの扉に触れるようなら、即刻管理権を本家へ引き渡してもらうからな!」
荒々しく受話器が叩きつけられ、冷たいツーという発信音が響いた。廊下の影、太い柱の後ろに身を隠していた涼は、志乃の息遣いと抑え込まれた震えをすべて見届けていた。姿を現すことはなく、音もなく足を引き返した。一族の暗部は密密たる蜘蛛の巣となって、一同を着実に深淵へと引きずり込んでいた。
五月十日、昼下がりに雷雨が激しく降り注いだ。真壁玄は懐中電灯とワイヤーブラシを手に、母屋に人の気配がない隙を見計らって東離れの格子戸の前へと忍び寄った。
彼は屈み込み、細い隙間に沿わせるようにして懐中電灯の光を差し入れた。鉄の横閂は外からは受け座にがっちり収まっているように見えたが、数十年木を相手にしてきた玄の眼は即座に異変を捉えた。床から約一メートルの高さの檜枠の内側で、木部繊維が不自然に圧壊しており、その縁にはどす黒い赤褐色を帯びた古い繊維層が剥離していた。
「これは……」玄は隙間に指を差し込んで探り、指先に伝わる感触に息を呑んだ。
それは「内側」から必死に外へ押し出そうとしたか、あるいは重量物で激しく閂を突き破ろうとした反向応力の痕跡だった。そればかりか、さらに低い位置には、間隔の詰まった縦方向の引っ掻き傷が七、八条、深さ五ミリほど刻まれており、その底には炭化して剥がれ落ちた有機物の残滓がこびりついていた。
この扉は、外の者が踏み入るのを防ぐために施錠されたのではなかった。
玄の背筋に底知れぬ寒気が走った。一瞬、すべてを写真に収めて涼に見せるか、あるいは警察に通報しようという衝動に駆られた。だが躊躇した。鷹峯の地で代々大工を営んできた彼には、名家の古傷を抉り出すことが何を招くか痛いほど分かっていたのだ。懐中電灯を消し、胸中で呟いた。「明日にしよう、雨が小降りになったら、もう一度調べ直す」。その致命的な躊躇が、決定的な物証を再び闇の中へと沈めてしまった。
五月十一日、しとしとと小雨が降っていた。小暮真紀は一人、大林寺へ向かうため雨宿の玄関で靴を履き替えていた。その時、式台の外からコツコツと杖をつく微かな音が聞こえた。
色褪せた濃紺の絣着物をまとい、総白髪となった老女が、破れかけた黒傘を差して雨に煙る石段の下に佇んでいた。八十五は下らないであろうその腰はひどく曲がっていた。
真紀は慌てて石段を下りた。「こんにちは、どなたをお探しですか。久我のお婆様なら母屋にいらっしゃいますが……」
老女は濁って黄ばんだ眼を上げ、真紀を見定めると、その肩越しに黒瓦が低く垂れ込める奥の回廊へと視線を這わせた。
「沙世ちゃん……今年でもう六十七年になるかねえ」老女の声は掠れ、二枚の瓦を擦り合わせたかのように軋んでいた。
真紀の胸が大きく跳ねた。「久我沙世さんをご存じなのですか。あの当時のことをご存じなんですか」
老女の口元が引きつり、泣いているのか笑っているのか判別できぬ奇妙な笑みを浮かべた。震える枯れ枝のような指を东離れへ向けた。「志乃という女の嘘に惑わされちゃいけないよ。沙世ちゃんは病気で死んだんでも、焼け死んだんでもない。あの晩、裏山で草を刈っていたから……耳にしたんだよ。扉には閂が落とされていたが、中で助けを呼んでいたのは、一人きりじゃなかったんだよ……」
「一人ではなかったとおっしゃるのですか。他には誰が。辻村冬真ですか」真紀は思わず半歩詰め寄った。
だが老女は見えざる亡霊に喉を絞められたかのように息を呑み、恐怖に怯えて二歩後ずさった。傘の縁が杉の低枝に当たり、冷たい雫を散らした。「わしは何も言っちゃおらん……言えやしない……久我の祟りが降りかかる……」
それだけを言い残すと、泥濘む足元も構わず、よろめきながら竹林の深い霧の中へと姿を消した。真紀は雨の中に立ち尽くし、眼鏡のレンズを雨水に濡らしていた。後を追うことはしなかったが、「扉に閂が落とされていた」という言葉が、焼き鏝のように彼女の記憶に刻みつけられた。
五月十二日、古邸内の空気はいっそう張り詰めていった。早朝、涼は手書きの部屋移動通知を携え、青山樹の部屋の襖を直々に叩いた。
「青山さん、梅雨時の東離れ回廊における地盤沈下および瓦の落下危険を考慮し、本日付で部屋を西離れ二階東側から、最西端の納戸部屋へ移っていただきます」涼の声音には有無を言わせぬ命令の響きがあった。
樹は窪んだ充血した目をこすりながら反発した。「久我さん、あそこは一番陽当たりが良く、サーバーや作業環境の配線もすべて済ませたところです。西の納戸は窓すら開かず、わずか三畳しかない。これは事実上の追い出しじゃないですか!」
涼はバインダーを胸元に抱え、冷徹な眼差しで見返した。「私は雨宿の管理人であり、建物の全居住者の安全を確保することが最大の責務です。変更に同意いただけないのであれば、賃貸借契約第七条に基づき、途中解約して退去していただいて構いません」
樹は涼を射抜くように睨みつけた。涼の瞳の奥に蠢く動揺と支配欲を見逃さなかった。涼は自分を守ろうとしているのではない、恐れているのだ。夜中に眠れぬ樹の眼差しを、そして樹が廊下でこれ以上何かを目撃することを恐れているのだ。
「分かりましたよ、移ります」樹は冷笑を浮かべ、乱暴に引き戸を閉ざした。保護という名目が支配の足枷と化した時、信頼は完全に霧散していた。
五月十三日の深夜、朝比奈柚月は東離れ回廊の角にある暗い梁に、超小型の高画質アクションカメラを固定した。
カメラは艶消しの黒テープで覆われ、レンズは東離れの閉ざされた格子戸を精密に捉えていた。名目上、彼女はその昼間、涼に対して「回廊の夜間雨漏り状況および白蟻動態観察のためのタイムラプス撮影申請」を提出し、慌ただしい口頭承認を取り付けていた。だがその書類には、赤外線暗視機能を有することはおろか、住人の夜間の動線を音声ごと記録することなど一切記されていなかった。
柚月は自室に籠もり、タブレット端末越しに監視映像を凝視していた。白黒の暗視画面に映る東離れの廊下は異様なほど広大で無機質であり、板張りの木目一つひとつが凍りついた蠢く虫のように見えた。モニターヘッドホンを耳にあてると、窓外の止まぬ雨音に混じって、古材の軋む不気味な鈍い音が響いていた。
「これは盗撮じゃない、真実を記録しているだけ」柚月は鏡の中の自分に向かって呟いたが、膝の上に置いた両手は小刻みに震えていた。
六月上旬、梅雨は最も激しい停滞期へと入り、鷹峯山全体がぬるま湯の湿地帯に沈められたかのようだった。
五月十四日、作業場にはテレピン油と生漆の微かな酸味を帯びた匂いが立ち込めていた。志乃は滅多にないことに自ら篠原楓の作業場へと歩み入り、粗い麻布で包まれた細長い包みを机の上に置いた。
「篠原さん、これは昭和初期の木札なのですが、長年土蔵に収めていたため湿気で黴が生えてしまいまして。古い木材の殺菌がお得意だと伺いましたので、表面の強化処置をお願いできないでしょうか」志乃の言葉遣いは丁寧だったが、全身に強い警戒を滲ませていた。
楓が麻布を解くと、長さ約三十センチ、幅十センチほどの檜の板が現れた。下半部は激しい火災による黒い炭化痕を晒し、かつて文字が記されていたはずの上半部は紙やすりで人為的に削り取られ、かすかに「魂」という文字の筆跡の残骸だけが読み取れた。
楓は手袋をはめ、無影拡大鏡の灯りを点けて凝視した。ふいに、彼女のピンセットが木札の天頂部で止まった。
「久我さん、この札はもともとどこに掲げられていたものですか」楓は顔を上げて尋ねた。
志乃の視線がかすかに泳いだ。「昔の持仏堂の付属札にすぎません」
「ですが、ここにはまったく異なる二組の釘穴があります」楓は細い金属プローブで札の裏面を指し示した。「一組目は鍛鉄の角釘による穿孔で、周囲の酸化輪が深く、少なくとも七十年以上の年月が経過しています。穴の間隔は六点五センチ。二組目は昭和中後期に普及した丸頭の亜鉛鍍金釘の穴で、間隔は八センチ。しかもこの二組目は、木札が火災で炭化した後に、裏から無理やり打ち込まれたものです」
志乃の顔色が一瞬にして蒼白になった。二組の釘穴の存在は、火災の発生後、この札が一度取り外され、加工され、まったく別の場所へと打ち付け直された動かぬ証拠だった。
「……あまり磨き立てる必要はありません、これ以上黴が増えなければそれでいいのです」志乃は防黴剤が乾くのも待たず、乱暴に麻布を引き寄せて木札を包み直すと、逃げるように部屋を飛び出していった。その慌ただしい背中を見送りながら、楓の瞳に宿る観察の色は一段と冷やかさを増した。
五月十三日、京都府立公文書館の閲覧申請システムに照会アラートが表示された。西園明は「戦後北区における都市防災と特殊民家火災事例の研究」と題し、昭和三十四〜三十六年度の鷹峯町周辺における消防出動報告書および警察の検視調書の閲覧を正式に申請した。
実名による公開申請だった。明は通常の学術利用にすぎないと考えていたが、申請から三時間も経たぬうちに公文書館の司書から電話が入った。
「西園様、ご申請の資料は現在『閲覧制限』となっております。書庫メモによりますと、十年前に久我家代理人弁護士との間で親族プライバシー保護協定が交わされており、第三者の閲覧には久我家現当主の書面による承諾が必要と規定されています」
廊下で電話を握りしめたまま、明の胸は重く沈み込んだ。学術調査が思わぬ形で薮を突いて蛇を出してしまったことを悟った。久我家の防護網は想像以上に張り巡らされており、今や彼の一挙手一投足に反応して収縮を始めていた。
五月十六日、午前三時十二分。豪雨が降りしきり、東離れのトタン雨樋に打ちつける激しい雨音が、機関銃の乱射のような轟音となって夜気を震わせていた。
青山樹は悪夢で目を覚ました。冷や汗びっしょりで身を起こすと、机の上のヘッドホンを掴み、巾木の下に隠したレコーダーにプラグを差し込んだ。
ヘッドホンからは凄まじい雨のノイズが流れ込んできた。樹は波形データのシークバーを慎重に進めた。すると、午前二時五十八分の位置で、波形グラフに不自然な隆起が現れた。
樹は音量を最大まで引き上げた。
雨音に紛れて、何かが引きずられるような足音が明瞭に混じっていた。スリッパの音ではない。濡れた無垢の床を裸足で踏みしめる、ねっとりとした粘着性の足音だった。ぴちゃり、ぴちゃり、ぴちゃり。
その足音は、東離れの格子戸の前で止まった。
直後、ヘッドホンから極めて微かでありながら、マイクに直接息を吹きかけたかのような囁き声が響いた。
「……いつきくん……くらいよ……いつきくん……」
樹は雷に打たれたように硬直した。ヘッドホンが手から滑り落ちそうになった。
「いつきくん」。それは彼が六歳の頃、母がまだ存命だった幼少期に、実家の年寄りだけが呼んでいた幼名だったのだ。十二歳で寄宿学校に入って以来、この世の誰一人として彼をその名で呼んだ者はいなかった。
底知れぬ恐怖が氷の掌となって樹の心臓を締め上げた。窒息しそうなほど呼吸が荒くなる。編集ソフト上の奇怪な音声波形を見つめながら、樹は震える手でマウスを握り、自らの名が刻まれたその四秒間の区間を選択すると、キーボードの「Delete」キーを叩き込んだ。
彼は最も決定的な四秒間を抹消した。この音が他人に聞かれれば狂人扱いされることを恐れ、何よりも、この屋敷に潜む怨霊が己の魂の深奥にある弱さを完全に見透かしていることに怯えたのだ。
五月十七日、雨宿の茶の間で、涼と志乃の間においてかつてないほど激しい口論が勃発した。
「今すぐ営業を停止し、店子を全員退去させるべきです!」涼は玄が作成した構造点検メモを座卓に叩きつけた。茶碗が跳ね上がり、茶渋が布巾を濡らす。「玄叔父さんの見立てでは、東離れの通し柱はとっくに限界を超えています。大型の台風が来れば回廊ごと倒壊する危険がある! それに最近、廊下で奇妙な物音が続き、全員が神経をすり減らしている。このままでは死人が出ます!」
座布団に端座した志乃の顔は青ざめ、その眼には偏執的な怒りの炎が燃え盛っていた。「退去ですって? 店子を追い出して、来月の維持費をどこから捻出するのです。毎年三百万にのぼる固定資産税はどう払うのですか。涼、この家がどうやって六十年を持ちこたえてきたと思うのです。この僅かな家賃と、私の老骨が一族に頭を下げて工面してきたのですよ。私が息をしている限り、雨宿の暖簾を下ろすことは許しません!」
「祖母さんはこの家を守っているんじゃない、公にできない秘密を守っているだけだ!」涼は理性を失い、声を荒らげた。
パチン! 乾いた激しい平手打ちの音が、涼の頬に炸裂した。
居間は死のような静寂に包まれた。志乃の手は空中で激しく震え、その瞳には涙と怨嗟が滲んでいた。「恩知らずめ……お前には分かっていないのです。もしあの扉が開けば、この久我家がどうなってしまうのかを……」
隣室の襖の隙間の向こうで、真紀と明は息を呑んで見つめ合った。口論の言葉は一言一句洩れ聞こえており、古邸を覆っていた神聖な静寂の帳は粉々に引き裂かれた。
五月十八日、大林寺の郵便受けに切手も差出人名もない白封筒が届いた。寺務所の戸の隙間から直接差し入れられたもので、表書きにはただ「小暮真紀様へ」とだけ記されていた。
真紀が封を切ると、学生用の原稿用紙を千切った一枚の切れ端が入っており、震える青いボールペンの文字で二行の文が綴られていた。
『沙世は冬真に薬を届けるために閉じ込められた。火事は事故ではない。救おうとした者が身代わりとなり、逃げ延びた卑怯者が名門として生き永らえたのだ』
真紀の瞳が激しく見開かれた。
冬真。手紙には、はっきりと辻村冬真の名が記されていた。
公的な記録において、冬真は火災の前夜に「家出」した遠縁の従兄と処理されていた。だがこの匿名の手紙は、沙世の死と冬真の存在を直接結びつけていた。誰が書いたのか。あの玄関に現れた不気味な老女か、それともこの屋敷を陰から見つめ続けてきた別の目撃者か。真紀は紙片をノートの底深くに挟み込んだ。半世紀にわたって封じられてきた殺人、あるいは遺棄の輪郭が、刻一刻と明瞭になりつつあった。
五月十九日、中庭の回廊から荒々しい言い争う声が響いた。
真壁玄は朝比奈柚月の三脚の雲台を乱暴に掴み、額に青筋を立てていた。「何度言ったら分かるんだ、東離れの入り口からこんなガラクタを片付けろ! 沈みかけた廊下の床板にゴム足を据え付けりゃ、仕口の折損が早まることくらい分からんのか!」
柚月も一歩も引かず、自らのシネマカメラを必死に庇い立てした。「真壁さん、私には久我さんからいただいた正式な撮影許可書があります! この廊下は共用スペースですし、機材を据える権利があります。レンズを壊されたら弁償できるんですか!」
玄は冷笑を漏らし、閉ざされた檜戸を指差した。「芸術を撮っている気でいるのか。お前はこの家の血を啜っているだけだ! 娘さん、世の中には開けたら最後、命で償わなきゃならん扉ってものがあるんだよ!」
涼が駆け寄り、二人を引き離した。だがこの衝突は、居合わせた者たちの胸中にいっそう深い猜疑の種を蒔いた。涼は柚月が真の撮影意図を隠しているのではないかと疑い始め、柚月は玄と久我家が結託して真実が世に出るのを妨害しているのだと確信するに至った。
六月中旬、雨宿の空気の中には、朽ちた古木と古い絹織物が発酵したかのような甘ったるい匂いが漂い始めていた。
五月二十日、篠原楓は自室の窓辺に立ち、奈良文化財研究所の人事課長に電話をかけた。
「課長、篠原です。梅雨明けまで正式に休職を延長させていただきたく存じます」
電話口から課長のいぶかしむ声が響いた。「篠原君、手首の怪我はそこまで長引くものなのかい。鷹峯のあのじめじめした環境は神経痛には逆効果だろう」
机の上に置かれた木札の釘穴の写しを見つめながら、楓の声はどこまでも冷静だった。「課長、手首の治療のためではありません。私はここで、幕末の防腐漆と昭和の火災による炭化層が複合した極めて稀少な構造を発見しました。これは単なる民家の部材ではなく、戦後の未記録な私的信仰祭具に関わる可能性が高いのです。最後まで記録しなければなりません」
受話器を置いた瞬間、楓は自分が一線を越えたことを自覚した。もはや静かに療養するだけの観察者ではない。この古邸の秘密は磁石のように彼女を引き寄せ、未知の嵐の渦中へと巻き込んでいた。
五月二十一日、西園明は京都府警友会が昭和三十年代に編纂した部内記念誌の中から、黄ばんだ火災調査速報の写しを見つけ出した。
一般には決して公開されることのなかったその報告書には、火災現場に居合わせた者の名簿が詳細に記録されていた。明はルーペを手に、その長い人名を一字一句追った。久我志乃、久我善三郎、久我沙世……。
だが、三頁にわたる名簿のどこにも、「辻村冬真」という名は存在しなかった。
それだけではない。「被災世帯常住人口」の欄において、数字が赤インクの万年筆で訂正されており、当初の「五名」から「四名」へと書き換えられ、その傍らに極めてかすれた私印が押されていた。
冬真の存在は、行政の最も初期の罹災統計の段階で意図的に抹消されていたのだ。初めから住民として記録されていなければ、火災の後に「死亡」や「行方不明」として公的に処理されることもない。法律と公文書の世界において、辻村冬真は完全な亡霊と化していた。明の背筋に冷たい汗が伝った。これは単なる一族の内輪の隠蔽ではなく、公権力が結託した重大な犯罪の嫌疑を帯びていた。
五月二十二日の早朝、白み始めた薄明の中、母屋の仏間から板が擦れ合う微かな物音が響いた。
志乃は巨大な黒漆塗りの仏壇の前に正座し、台座の隠し板をおぼつかない手つきで引き抜いた。あの日、楓の手から奪い返した焼け焦げた木札を両手で捧げ持ち、その眼には恐怖と絶望の色が満ちていた。
「沙世……冬真……私を恨まないでおくれ……」志乃のやつれ果てた顔相は、揺らめく常夜灯の炎に照らされて異様な凄みを帯びていた。木札を仏壇の最下層の空洞へ深く押し込み、隠し板を寸分の狂いもなく元の位置へ戻した。
すべては誰にも気づかれずに済んだと彼女は信じていた。だがその日の午後、油を注ぎ足しに仏間へ入った涼は、台座の金箔の縁に走る一筋の真新しい擦り傷を一目で見抜いた。涼は身をかがめ、指先でその傷をなぞり、その瞳は次第に氷のように冷たく研ぎ澄まされていった。祖母は何かを隠している。それも久我の屋台骨を揺るがすほどの何かを。
五月二十三日、雨宿は未曾有の猛烈な豪雨に見舞われた。吹き荒れる暴風に、廊下の格子窓が激しく震動していた。
早朝六時、青山樹は身支度のため部屋を出た。東離れの回廊の入り口に差しかかったその時、全身が金縛りに遭ったように凍りついた。
磨き上げられた欅の床の上に、東離れの格子戸の隙間の真下から始まる、濡れそぼった足跡が一列に続いていた。
足跡は小さく、長さは二十センチ足らず、七、八歳の子供の歩幅に見えた。深山特有の黒褐色の腐葉土をまとい、一歩また一歩と、回廊を伝って母屋の仏間の方角へと真っ直ぐ伸びていた。だが廊下の中央で突如として途切れ、引き返した形跡はどこにもなかった。
樹の口から、抑えきれない悲鳴が漏れた。
二分後、涼と真壁玄が同時にその場へ駆けつけた。
涼は青ざめた顔でモップを手に取り、拭き取ろうとした。「雨水が吹き込んだか、裏山の狸でも迷い込んだのでしょう……」
「触るな!」玄は荒っぽく涼の手を払いのけた。屈み込み、ポケットからコンベックスを取り出して、泥の足跡の紋様と加重の偏りを細かく測り始めた。
「獣じゃねえ」玄の声は鉛のように重かった。「人間の足跡だ。それに……爪先と踵の加重の残り方を見ろ。これは昭和初期に作られた天然藁の草履特有の踏み跡だ。今時こんな履物を身につけている人間がどこにいる」
樹は傍らに立ち、激しく震えていた。「言ったじゃないか……中に何かがいるって! 誰も信じてくれなかったくせに!」
涼は二人の間に立ち尽くし、モップの柄が軋むほど握りしめていた。玄の職人としての物理的鑑定と、樹の錯乱した証言。その二つが涼の胸に重く突き刺さった。彼が秩序を保つために掲げてきた管理規則が、この瞬間から音を立てて崩れ始めていた。
五月二十四日、夜が静まり返った頃、小暮真紀が西園明の部屋の襖を叩いた。
真紀は大林寺で写し取った破断痕の紙を手に、明の部屋へと入った。明は温かい麦茶を淹れ、二人は狭い机を挟んで向かい合った。
「西園君、あなたの力を借りたいの」真紀は机の上にトレーシングペーパーを広げた。「大林寺の過去帳から破り取られた二頁は、あなたが追っている火災の時期と完全に一致している。でも公的な研究機関の名義義義で法医学的な筆跡鑑定や紙質分析にかけるわけにはいかない。寺の顔に泥を塗ることになるし、私も史料調査委員会から除名されてしまう」
明は眼鏡を直すと、研究者特有の熱を瞳に宿らせた。「当てがあります。広島大学の製紙史研究所に分光繊維照合システムがある。縁に残った微細な繊維痕さえあれば、引き裂かれた和紙の化学組成と製造時期を割り出せるはずです。ただし小暮さん、引き換えにあなたが寺で得た聞き取りの証言をすべて僕に開示してください」
真紀は深く息を吸い込んだ。「約束するわ。ただし、久我のお婆様と涼さんには絶対に悟られてはならない」
研究者同士の同盟が薄暗い一室で結ばれた。だがその同盟の代償は、雨宿全体をいっそう深い疑心暗鬼へと追い込むことだった。
五月二十五日、朝比奈柚月に東京のプロデューサーから最後通告が突きつけられた。
「来週の月曜までに粗編集のサンプルを見せろ。さもなければ法務部から違約金二百万の請求書を正式に送る」
柚月は自室に引きこもり、雨戸を閉め切って定点カメラの映像を幾度となく見返した。不意に、トラックパッドの上で彼女の指先が止まった。
昨夜、五月二十四日の深夜十一時四十分、すなわちかつての大火が発生したのと同時刻において、タイムコードが一瞬激しく跳ねた。直後、画面は丸々十一分間にわたり完全な暗黒の静止ノイズへと変貌したのだ。映像も音もなく、廊下に満ちていたはずの雨音すら完全に消失していた。そして深夜十一時五十一分十五秒、画面は唐突に正常へと戻り、東離れの格子戸は何事もなかったかのように硬く閉ざされていた。
柚月は機材のシステムログを呼び出した。ログは示していた。その十一分間、イメージセンサーもマイクも正常に通電しており、バッテリーの出力にも電圧降下はなく、電源遮断も再起動の履歴も一切存在しなかった。
機器の故障などではない。それは物理的に消滅させられた、十一分間の「絶対の空白」だった。
その時、外から涼が襖を叩いた。「朝比奈さん、開けてください。定例の防火安全点検です」
柚月は電光石火の速さでSDカードを抜き取り、肌着の内ポケットに押し込んだ。引き戸を開け、警戒と監視の色を宿した涼の顔と対峙した時、彼女は恐ろしいほど平然とした声で言った。「久我さん、カメラが故障してしまったので、取り外して東京へ修理に出そうとしていたところです」。二人は互いの眼を見つめ合った。誰もが知っていた。嘘こそが、この屋敷で流通する唯一の通貨になってしまったことを。
五月二十六日の午後、太平洋上で梅雨期最強の前線が発達し、猛烈な台風六号の暴風域が近畿地方を目指して北上を開始していた。
五月二十六日の夜が更けると、柚月は自室で音響解析ソフトウェアを駆使し、あの十一分間の空白信号の復元を試みていた。
ゲインを一挙に四十八デシベルまで引き上げ、多重のノイズリダクションフィルターを噛ませた。耳を聾するほどのホワイトノイズの底から、極めて微小で、規則正しく痛ましい打撃音が徐々に輪郭を現した。
トン……トン……トン……
雷鳴でも雨音でもない。重厚な板材を何かが叩きつける鈍い音だった。緩慢で重々しく、正確に三点五秒の間隔を刻んでいた。柚月の指先がキーボードの上で硬直した。涼に明かすことも、東京の制作班にデータを送ることもできなかった。消去されたはずの空白は重い倫理の特異点となり、彼女を捉えて離さなかった。公開すれば猟奇的スキャンダルとして耳目を集めるだろうが、隠蔽すれば、この未知の霊魂の救いを求める叫びを生涯背負うことになるのだ。
五月二十七日、西園明のもとに広島大学から速達便で分光分析の速報が届けられた。
報告書は証明していた。大林寺の過去帳から引き裂かれた二頁の繊維に含まれる硫酸塩填料は、昭和三十六年以降に日本で普及した近代上質紙のものと完全に一致していた。
すなわち、その二頁は昭和三十四年の火災直後に切り取られたものではなかった。火災から二年後、何者かが鋭利な剃刀を用いて真実を記した本来の和紙を慎重に削ぎ落とし、偽造された記述を差し挟み、さらに歳月を経てから、後ろ暗い思惑を抱く者の手によってその偽造頁ごと強引に破り取られたのだ。
明は複写書類を手に共同食堂へと足を踏み入れた。夕餉の刻、店子たちは押し黙ったまま茶漬けをすすっていた。上座に座る志乃は、氷のように冷たい眼差しで全員を見据えていた。明はポケットの中で報告書を握りしめ、掌は冷や汗で濡れそぼっていた。何度も問い質そうと言葉を喉まで出しかけたが、隣に座る真紀の懇願するような視線と、防衛的に強張った涼の横顔を前にして、言葉を飲み込まざるを得なかった。真実は膳の下に転がっているのに、それを覆す勇気を持つ者は誰もいなかった。
五月二十八日の夕暮れ。暴風が鷹峯の杉木立を激しく揺さぶり、雨足はいっそう猛威を振るい始めた。
真壁玄は懐中電灯をかざし、再び東離れの格子戸の前へと立った。今回、彼の眼差しは横閂の右側にある鉄座の金具に釘付けとなった。
錆びついた鍛鉄の閂の上に、銀白色に鈍く光る真新しい引っ掻き傷が二条、刻まれていた。傷は深く、削り出された微小な金属のバリはまだ湿気に酸化されてすらいなかった。
玄は閂に掌を当てた。鉄は冷たかったが、その冷気の奥底で、木の扉の内部から微細な振動が伝わってきた。あたかも微かな気流が、隙間を通じて外へと吸い出されているかのようだった。
玄は納屋を見回っていた涼を見つけ出し、腕を引いて廊下の物陰へと引きずり込んだ。
「涼、もう引き延ばせねえぞ」玄の声は掠れ、切迫していた。「閂に新しい傷がついている。中の軸組が歪み始めてやがる。中に生きた人間がいるのか、それとも……何か中から出ようとしているのか。今夜のうちにワイヤーで閂を巻き止めるか、東離れを完全に隔離して全員を避難させるんだ!」
涼の顔色は青白く染まった。「玄叔父さん、今夜にも台風が直撃するのに、今からどこへ避難しろと言うんですか。それに大仰に東離れを封鎖すれば、祖母が取り乱します。マスコミに嗅ぎつけられでもしたら……」
「お前は屋敷の体面を守りたいのか、それとも命を守りたいのか、どっちなんだ!」玄は怒りを込めて低く唸った。
二人の口論は、廊下の反対側にいた柚月の耳に余すところなく届いていた。引き戸の陰に身を潜めた柚月は、静かにポータブル録音機のスイッチを入れた。安全のための封鎖措置は権力闘争へと変貌し、誰もが己の生存を賭けて駆け引きを繰り広げていた。
五月二十九日、午後四時。空は深夜のように暗澹と垂れ込めていた。雨宿の共同台所には、ステンレスのシンクに滴る水滴の音だけが響いていた。
合羽を着込んだ青山樹は、最後の荷物であるプログラミングノートと外付けハードディスクの箱を玄関へ運び出そうとしていた。すでに個人タクシーを手配し、この狂気の古邸から脱出する算段を整えていた。
水筒を取りに台所へ戻ったその時、誰もいないはずの背後の食品庫から、澄み切った明瞭な呼び声が響いた。
「……いつきくん……どうしてあけてくれないの……あついよ……」
その声はもはや微弱ではなく、雨風の音に掻き消されることもなかった。澄み渡り、幼く、泣きじゃくる少女の声が、まるで彼の項に吐息を吹きかけるほどの至近距離から響いたのだ。
樹は裂けんばかりの絶叫を上げ、抱えていた段ボール箱を取り落とした。ハードディスクと蔵書が床一面に散乱する。散らばった貴重な機材に目もくれず、彼は手足を這わせて狂ったように玄関へと逃げ出した。
事務所から飛び出してきた涼が彼を制止しようとした。「青山さん! 外は暴風雨警報が出ています、山道は土砂崩れの危険がある、今出て行くのは無謀です!」
「離せ! 狂人め! お前ら一族は全員狂ってるんだ!」樹は涼の手を狂乱して振りほどき、大戸を開け放つと、荒れ狂う風雨の暗闇の中へと飛び出していった。古邸は最も重要な音響の目撃者を失い、平穏という最後の虚飾も完全に剥ぎ取られた。
五月三十日、台風の中心は着実に近畿地方へと迫っていた。
家捜しを続けた涼は、亡き祖父の遺品である古い硯箱の底から、長さ約十五センチ、古色蒼然とした造りで見出し札も番号もない真鍮の古鍵を見つけ出した。
涼はその鍵を握りしめ、憤りを露わにして志乃の寝所の襖を押し開けた。
「この鍵が東離れの奥にある隠し扉を開けるものですね?!」涼は志乃の前の畳に鍵を激しく投げ打った。
志乃は灯りも点けず、薄暗い部屋に端座していた。窓外の烈風が障子をガタガタと鳴らしていた。
老女はゆっくりと顔を上げ、黒ずんだ真鍮の鍵を見つめると、口元に凄惨で冷酷な笑みを浮かべた。「それはお前が使うためのものではありませんよ。涼、お前は己を何様だと思っているのです。久我家に拾われただけの子供にすぎないのですよ。この屋敷の真の主は、とっくの昔にあの一室で死に絶えたのです」
涼は激しい衝撃を受け、その場に棒立ちとなった。「あ、あなた……何を言っているのですか」
「出て行きなさい。台帳を持って雨宿から立ち去るのです」志乃は冷然と目を閉じた。「この屋敷の罪業は、私一人が棺桶まで持っていきます」
生者たちの間にあった血縁と所有の絆は、この瞬間完全に断ち切られた。東離れの扉は、単なる建造物の修繕問題から、一族の倫理そのものを呑み込む深淵へと変貌したのだ。
五月三十一日、昼下がり。天は滝のような雨を注ぎ落とし、白昼は夜の闇へと沈んでいた。
篠原楓は烈風を衝いて中庭を横切り、東離れの外壁へと駆け寄った。彼女の眼に飛び込んできたのは恐るべき光景だった。白漆喰で仕上げられていたはずの土壁一面に、布基礎から這い上がるようにして巨大で禍々しい漆黒の水染みが広がっていたのだ。その染みは無数の腕が壁を破ろうと這い狂い、漆喰を掻きむしっているかのような奇怪な形を象っていた。
時を同じくして、柚月の部屋の監視モニターが甲高い電子音を鳴り響かせた。停電で落ちていたはずの機材が、内蔵バッテリーによって自発的に起動したのだ。
画面の中では、閉ざされていたはずの東離れの檜戸が、肉眼ではっきりと捉えられるほど小刻みに震動していた。
鴨居の上から、黒灰色の濁った水滴が、閂を伝ってポタポタと滴り落ちていた。
楓は物理的構造の致命的崩壊を目撃し、柚月は人知を超えた異常震動を記録し、真紀は改ざんされた歴史の物証を握り、明は公権力の隠蔽公文書を突き止め、玄は閂の内側からの衝撃痕という鉄証を抱え、そして涼は一族に見捨てられた絶望の中で打ちひしがれていた。
豪雨は激しさを極め、雨宿の全貌は吹き荒れる暴風雨の中で軋み、荒れ狂う怒濤に漂う一艘の小舟のように揺らめいていた。
昭和三十四年七月十一日深夜の大火の真相は、一枚の簡素な事故報告書に収まるような生易しいものでは決してなかった。
あの夜、九歳の久我沙世は密かに屋敷の鍵を持ち出し、一族の裏帳簿の保管庫として使われていた東離れへと忍び込んだ。遊び半分などではなく、志乃によって閉じ込められ、高熱に苦しんでいた遠縁の従兄、辻村冬真へ解熱薬と水を届けるためだった。しかし、蝋燭の火が山積みの帳簿へ燃え移った時、恐慌に陥った志乃が真っ先に抱いた感情は救出ではなく、そこに隠された脱税の証拠と非嫡出子の醜聞が白日の下に晒されることへの恐怖だった。
立ち込める黒煙の中、志乃は震える両手で、外側から重い鉄の横閂を閂座へと乱暴に叩き込んだ。
彼女は扉を固く閉ざしたのだ。
扉の内側では、炎が狂い咲いていた。沙世は小さな身体を、熱で灼きつくような檜の扉に必死で押し当てた。外から響く混乱した足音や消火を叫ぶ声が聞こえていたが、彼女の背後では炎に包まれた梁が崩れ落ちようとしていた。彼女は最後の力を振り絞り、扉の隙間に向かって悲痛な叫びを上げた。
「あけちゃだめ! 火がくる! あけないで……!」
そして彼女の後方、炎の海の中で煙に目を灼かれて血涙を流す冬真は、焼け焦げた木札を握り締めながら狂ったように扉枠や格子を掻きむしり、絶望的な慟哭を上げていた。
「たすけて! あけてよ! だして! ぼくはここにいるよ……!」
あれから、六十七年の歳月が流れた。
二人の子供の意思、真っ向から対立する二つの極限の願いは、あの業火と重い鉄の閂によって、その扉へ永遠に焼き付けられた。
沙世の魂は守護と遮断の障壁となり、門の外にいる無辜の者たちが深淵に呑み込まれぬよう守るため、現れるたびに「決して開けてはならない」という恐怖を必死に訴え続けた。
そして冬真の怨念は生き延びようとする永遠の本能と化し、半世紀以上にわたる暗黒の地獄の中で、夜な夜な閂を打ち叩き、「助けてくれ、開けてくれ」と泣き叫び続けていた。
閂の外側には、自らの出自の残酷な真実を知ったばかりの辻村涼が佇んでいた。
二十六年間、彼は久我家の孫としてこの傾きかけた古邸を切り盛りしてきた。だが今夜、祖父の遺品である黒ずんだ真鍮の鍵を握り、志乃の冷え切った憎悪の笑みを目にした時、血縁という虚飾は粉々に砕け散った。彼は久我の血筋ではなく、あの大火で公的に存在を消された辻村一族の遺児だったのだ。志乃が彼を引き取ったのは、怨霊の復讐に対する深甚な恐怖からであり、同時に辻村の血脈を自らの監視下に縛り付けておくためだった。
涼は湿って冷え切った回廊の柱に身を寄せ、胸を引き裂くような深い悲痛に耐えていた。耳元で響く扉の内側の沙世の声は、外に生きる者を救おうとする自己犠牲の守護であり、冬真の止まぬ爪音は、闇の底に囚われた同族の少年の絶望的な生存への渇望だった。閂の両側、一方は守護、他方は深淵。六十七年の歳月を隔てた二つの記憶が、今夜完全に交錯していた。
五月三十一日深夜、嵐はついに最も凄惨な頂点に達した。鷹峯の尾根から吹き下ろす猛烈な山嵐が滝のような豪雨を伴い、古邸の緩んだ黒瓦の一枚一枚を激しく叩きつけた。電光が刃のように夜空を切り裂き、轟然たる落雷の音とともに雨宿全体のブレーカーが跳ね上がり、灯火が一斉に消え去った。
古邸全体が一寸先も見えぬ暗闇と、濃密な湿気の中へと沈み込んだ。
東離れの奥底から、木材の繊維が裂ける鋭い軋み音が響き、続いて重苦しい金属の破断音が轟いた。
閂を覆っていた黒漆は完全に剥がれ落ちた。錆びた鉄輪が、吹き抜ける狂風の中で激しく打ち鳴らされた。
扉の外では、それぞれが突き止めた残酷な真実の破片を握りしめた者たちが、雷光の中で息を殺し、誰一人としてこの脆い均衡を破る勇気を持てずにいた。扉の内側では、六十七年にわたり絡み合い、豪雨と雷鳴の中で完全に目覚めた二つの重なり合う叫びが渦巻いていた。
百年の古邸が己の重みと怨嗟に呑み込まれようとしたその瞬間、前庭の青石段の下から、激しい雷雨を切り裂くようにして規則正しい足音が響いた。古の雨音と因果の糸に導かれて辿り着いた訪問者の足音だった。
風雨の中、人影が静かに玄関の式台を踏みしめ、雨宿の大戸に掲げられた錆びた銅の輪を静かに打ち鳴らした。
静まり返る大邸宅の中、門の閂に降り注ぐ雨音だけは昔日のように澄み渡っていた。天を覆う豪雨の中で古邸は息を潜めて待ち望んでいた。重い扉を開け放ち、閂の両側に響き渡る六十七年の悲鳴を自らの手で鎮める、宿命の旅人の訪れを。
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